07.26
たまげるよ 典厩寺
古戦場のあとは、
川中島の戦いで討死した武田信繁のお墓のある典厩寺へ。
バスだと2停留所分の距離。
Googleさんによると、徒歩で14分。
よし歩こう!
とiPhone片手に歩き始めたけど
暑い...暑すぎる (*_*)
5分で挫折。
また5分かけて川中島古戦場跡バス停まで戻るという
非効率なことをし、更に体力が奪われる。 (ノ_<)
バス停に小さな看板がありましたが。
典厩寺➡️
矢印がどこを指しているのか
さっぱりわからない。
バス停徒歩2分となっていたんだけどなぁ...
歩きまわって、看板を発見!
と、思ったら200m先右折ですって??
どこが徒歩2分じゃ!! ヽ(`ω´*)ノ彡
到着!
ここは当時、鶴巣寺と称していました。
武田信玄の弟であり武田軍・副将の武田信繁は
川中島合戦の際、この寺を本陣と出陣しましたが37才で戦死。
この寺に埋葬されました。
その後、松代藩を治めることになった真田信之によって
武田信繁の官職が「典厩」であったことから典厩寺と改められました。
無人だということはリサーチ済みでしたが
「拝観料はお皿にお入れ願います。」
はい...
川中島古戦場は、ちらほら他にも観光客らしき人がいましたが
参拝客はおろか、お寺の方もいません。
こ・・・これは、和歌山・九度山の善名称院(真田庵)を彷彿とさせる雰囲気。
※現在は真田ブームなので賑っているはず
日本一大きい閻魔像だそう。
松代八代藩主・真田幸貫によって
川中島合戦の6000余命追善供養のために建立されました。
登別温泉のからくり閻魔の方が大きい気がするのは気のせいでしょう。
いやいや、あれは仏像じゃないし
討死した信繁公の首は家臣が奪い返し
この井戸で清めたそうです。
武田典厩信繁公のお墓
武田信繁は文武両道に優れ、人望も高かった人物。
もし、ここで信繁公が討死しなければ
後の武田家が辿る運命も違ったものだったかもしれません。
真田昌幸はその信繁の知性や将器に心酔し、次男に「信繁」と命名しました。
真田幸村の名で後世に広く知られることになった、真田信繁です。
こちらが本堂。
武田軍旗、風林火山と
上杉軍旗、毘沙門天が。
川中島記念館なる物置・・・いいえ! 蔵へ
真っ暗でどうしようかと思いましたが
自分で電気をつけてよろしいのですよね?
まず正面に目に入るのが
武田信玄公、上杉謙信公の肖像画。
説明書きが全くありません。
初めて目にするタイプですが、どちら様が描かれたものなのでしょうか?
振り返ると、おもむろに
典厩信繁公の肖像画と兜が置かれていました。
こっ・・・こわいよ _(:□ 」∠)_
境内どころか、お寺の周辺人っ子一人いないのです
武田信繁公の兜なんて
とてつもなく貴重なものなんじゃないの!?
そんな、なんとなく置いちゃって良いのでしょうか。
刀には少しだけ二行ほど説明があったのでありがたい。
鎧の下に着る下着だそう
信繁公の物らしい
奥にあるのは鶴の卵でできた杯。
信玄公・信繁公最後の杯。
ごそっと積まれているのは甲陽軍艦。
ま・・・まさか本物とか言わないよね?
上杉謙信公の鉄扇
武田信繁公を弔うお寺に
なぜ謙信公の鉄扇があるのか?
一行でも良いから、なにか説明がほしい。
他にも山本勘助の「蓑」が隅の方にワサッっとかけてあったり
マニアにとっては、とんでもないお宝の山でした。
典厩寺を出てすぐ
また目を瞑ってみる。
突っ込みどころ満載で、面白おかしく書いてしまいましたが
武田信繁公の菩提を弔い、松代藩主に保護されてきた由緒正しいお寺です。
それほど大興奮でした。
苦労してきた甲斐がありました。
この後も苦労が待っていたのですが
来た道をてくてく。
日差しにジリジリ焼かれながらバス停へ。
しかし、待てど暮らせどバスは来ません。
帰りの新幹線の予約を遅らせる。
ふと顔を上げると気温計が目に入ってしまいました。
37℃ d(○`□´○)b━━━!!
見なきゃ良かった・・・
朦朧とした意識も
やっと来たバスで涼み、少し復活。
どれくらい待ったかは本当に覚えていない
駅のホームで、最後の最後まで
これでもか! と
立ち食い「わさび野沢菜そば」
東京経由で蝦夷地への帰路につきます。
羽田空港でやっとやっと
落ち着いて飲んだ、桃のレモネードの冷たさがどれほど染みたことか。
5日ぶりの北海道は
冷っとした涼しさがとても心地よかったです。
自宅へ帰って気がつきましたが
8ヶ所を虫に刺されていました。
今も痒みと戦っております。
おしまい
- 関連記事
-
- 乃木大将を偲んで (2016/09/13)
- たまげるよ 典厩寺 (2016/07/26)
- 川中島古戦場 (2016/07/24)
テーマ :
歴史・文化にふれる旅
ジャンル :
旅行